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宝塚歌劇団月組「メリー・ウィドウ」:“ザ・タカラヅカ”的華麗なる夢舞台

非常に今更的ですがUPしておきます(^_^;)
でもこれ以上に、メモ的草稿だけ書いて上げられずにいるもっと今更的ネタもあるのですが(-"-;)


12月8日午前の部で宝塚歌劇団月組「メリー・ウィドウ」を観てきました。
そもそもレハールの「メリー・ウィドウ」自体が好きなので、絶対観たいと思っていたのですよね。
それにウキウキ&ノリのいい曲が多いので気分高揚に効果大、ラブコメ&ハッピーエンドの内容等々、宝塚に合わないはずはない、絶対面白くなるはずだ、という期待もあってとても楽しみにしていましたが、その期待・予想を遙かに大きく上回る秀逸な、すばらしい舞台でした。

ヅカ的に踊りも満載で、ピリリと笑わせるセリフや歌のテンポも小気味よくて、「そうよ!ヅカってこれよ!」という世界でしたよ。
「舞台はしばしの夢世界」といいますし、殊にヅカにおいては華麗で華やかでその「夢」がバラ色スミレ色に金ピカの輝きを伴って繰り広げられるわけですが、まさにそうした「ザ・タカラヅカ」的舞台です。
見応え満点でした。
行けてよかった、ほんとに。

月組公演ですが主演は専科の北翔海莉。
昨年卒業した音月桂や、今ご贔屓のひとりの未涼亜希なんかと同期ですから、ベテランです。
主演で観るのは初めてなんですが、まあ彼女がすごい存在感と貫禄!
若い月組のメンバー達をぐいぐい引っ張っていくそのパワーたるや、まさにベテランの面目躍如で、しかも惜しみなくその力を一つの舞台に注ぎ込むエネルギーと後輩に伝えようという気概に圧倒されます。
すごいです。
オトコマエです。
ホレます。
てかホレました(笑)

執事ニエグシュの暁千星、まだ若い子だと思うのですが、まあその子が必死に北翔さんのアドリブについていこうと一生懸命なのがまた微笑ましい。
アドリブシーンで「天国と地獄知ってるか」と北翔さんに振られて対応しようと考えているスキに北翔さんがちゃっちゃと歌い出しちゃうもんだから、対応しなきゃということであわてて口歌に合わせて踊りまくるし、動転してたのか(?)その次のセリフで同じセリフを2回言ってしまい「そうじゃないだろ、そこは『○○○………(←ニエグシュのセリフ)』だろ!油断するな!」とつっこまれるあたりはね、もう笑っちゃいますね。
カンバレー、という感じで。

でも北翔さんも嫌みじゃないし、さわやかにやってのけるところがすごい。
てか、ニエグシュのセリフを言ってのける北翔さんもすごいで(笑)。
ニエグシュの千星は相当鍛えられたんじゃないでしょうか、今回の舞台で。
彼女には敢闘賞をあげたいですね(笑)

ともかくあちこちで笑いが起こるし、後ろのお母さんなんて声上げてゲラゲラ笑いまくりで、実に劇場内が楽しさにあふれている。
大劇場のロケットを彷彿させるカンカンは大盤振る舞いだし、北翔さんも一緒になって踊ってる辺り「何年ぶり?」とか思っちゃいますね。

またツェータ男爵役のマギーさんが非常にチャーミング。
彼女は別の舞台でみたことはあるんですが、こんなにいいオヤジができるのかと感心しました。
素敵な愛すべき残念役の男爵で、お話の屋台骨をしっかりと支えていました。

曲や大筋も基本的に、原典に忠実です。
ストーリーの最後は一部やはりヅカ的に変えてはありましたけど、まあよくまとまってたし、マギーさんの熱演があれば受け入れられる。
カンカンが何度も入ったり、途中ダンスシーンでイマドキ音楽のダンスは入ったりはしたものの、レハールの名曲の数々はしっかり残されていて、それをまたヅカの方々がクオリティ高く、心をこめて熱唱してくれる。
涙出ますね、すばらしすぎて幸せすぎて感動的で。

オペラを堅苦しくなくライトに、大衆レベルでもっと楽しもうじゃないか、というのがオペレッタ発祥のコンセプトだと聞いたことがありますが、まさにオペレッタ発祥時代にこの舞台をみていた人たちは、こんな感覚で楽しんでいたんじゃないでしょうか。

とにかく「これがヅカのシアワセ夢舞台だよ!」という王道をがっつり見せていただいた、素晴らしきメリー・ウィドウ。
これ、年末恒例でやってもいいくらいの出来映えだと思います。
ぜひ再演を望みたいですね、いろいろ鬱積してくる年末辺りに(笑)
ともかく、北翔さん&がんばった月組さんたちに大感謝!
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by kababon_s | 2013-12-30 04:36 | Theatre/Musical

Axle三銃士「仮面の男」(3):「銃士物」であって「銃士物」でない ~あの日と共に思うこと~

さて、引き続きAxleの三銃士「仮面の男」。
「三銃士」とくれば「キャラ萌え」に走る自分が、何時まで経っても作品を、舞台をかみしめている。

多分、この舞台は「銃士物」であって「銃士物」でないからだろう。
いや、「三銃士」「鉄仮面」どころか、間違いなく「ダル物」こと全11巻の原作「ダルタニャン物語」に間違いないのだが、でも同時に「銃士物」ではないのだ。
「三銃士」もとい「ダルタニャン物語」を知らなくても楽しめるし、「ダル物」視点でも楽しめる。
その一方で「ダル物」にこだわった一点集中をしてしまうと、この物語の大意というか、本質を見落とすんじゃなかろうか、とも思うのである。
なんと不思議な「三銃士」であり「ダル物」であることか。

そして今回の観劇は3月10日のマチソワ。
翌日は「あの日」から1年という日だからか、どうしたって、いろいろ思い出す。
だから今回のレビューは、とても勝手に、個人的に考えたことが含まれているので、その点はご了承を。
あくまでも私の勝手な感想であるよ。
舞台の感想なんて、見た人の数だけあればいいのだ。

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by kababon_s | 2012-03-17 04:21 | Theatre/Musical

Axle三銃士「仮面の男」(2):モリエールの「普遍」とアラミスの衣

引き続きAxleの三銃士「仮面の男」。
あまりに深くて、思うところや考えるところ、余韻がありすぎる。

多分、きっと私はこういう「三銃士」もとい「ダルタニャン物語」が見たかったのだと思う。
見たかったものの形のひとつが、この「仮面の男」だったというべきか。

舞台に現れたのはワイシャツにネクタイの役者たち。
この時点で、この「仮面の男」が、歴史物だけをやるつもりではないことがわかる。

そしてアップテンポな曲とチカチカライトと共にダンスが始まり、最初に「仮面の男」時代の、いわばおっさん三銃士+1のチャンバラアクション、次いで「首飾り事件」時代の、若銃士+小僧のダルタニャンが登場する。
4人の若僧の前に立ちはだかるのは、おっさん三銃士+1の2役目、ロシュフォール、ミレディ、ジュサックとリシュリュー猊下だ。
この時点でもう、かなり意味深。
人は歳を経て、かつて自身が刃向かい対立した「敵」になるのだ、いつの間にか。

そして登場人物ともども、最後に現れるのがモリエール&仕立屋ペルスランだ。
特にモリエール。

正直、ご贔屓アラミスももちろんだが、それ以上にこの「仮面の男」で頭を支配しているのはモリエールなのである。

チェス盤の上で踊る白ワイシャツの無機質な男共を、その「役」となすのは、シンボライズされた上着のみだ。
「地下に潜伏する」はずの「仕立屋」は、その実、舞台の2層の上段から、チェス盤たる世界を見下ろしている。
まるで天上から世界を見下ろす某の化身のように。
規模こそ全然違うが、まるでエイフマン・バレエの「ドン・ジュアンとモリエール」を思い出すような立体2層構成だ。
天上と下界、平民の生きる世界と太陽王の世界だ。

そしてその「仕立屋の助手」たる劇作家モリエールは、その某の命により、あるいは自主的になのか、自在に盤上や天上を舞い、踊り、立体交差する盤上の世界を、空気のように漂う。
まるで時の使者だ。

時にはロシュフォールとなって若銃士とダルを引き合わせ、時にはルイーズとなってラウルを翻弄し、また時にはアンヌとなって国禍を引き起こす。
実はあるところでアラミスに僧衣を着せるのも、モリエールだったりする。

小さいながらもしなやかな、だけど筋肉ムキムキのモリエールは、なんだかノートルダム寺院で頬杖ついてるガーゴイルと一緒に、無表情にチェス盤の世界を眺めているようにも思える。

あまりにも自在で自由なこの“いたずら者”は、「ダル物」の世界どころか、「ノートルダム・ド・パリ」ではフロロを迷わせ、エスメラルダとカジモドを邂逅させたりもしそうだし、国境を越えて「カラマーゾフ」の世界に入り込み、ミーチャに「童」の夢を見させ、芳香と腐臭でアリョーシャを悩ませ、悪魔となってワーニャを狂気へと突き落としそうな、そんな雰囲気すらある。
まるでサン・ジェルマン伯爵。
断頭台の王妃やギロチンの血の海だって見届けていそうだ。

なんという浮遊感だ、モリエール。

つまり、「普遍」なのだ。
この舞台の、読むところがほどんどないパンフレットに書かれていたわずかな言葉「普遍」の、その象徴が、多分モリエールなんだと思う。

でもその「普遍」というのは実にこれまた曖昧で、「ダル物」にしても「ノートルダム・ド・パリ」「カラマーゾフ」にしても、そのテーマはまったく違う。

じゃあ「普遍」って何だ。
例えば、時を、時代を経ても、どんなに時代が変わっても変わらない想いであり価値観か。
価値観なんて人の数ほどある。
「普遍」もまた、人の数ほどあるわけだ。

「ダル物」でいうなら銃士たちの生きざまであり、「国家」「国」「人」、あるいはアトスとラウルに象徴される「父の思い」だったりするのかもしれない。

モリエールはチェス盤の駒を動かす側に、しかもキングの駒すらを自由に操ろうと策謀するアラミスに、衣を着せる。
おそらく誰よりも大逸れた、大きな野望を持つ男に、自ら衣を着せる。
多分、とても無表情に。

だがアラミスの計画は頓挫する。
阻まれる。
「王の駒」であろうとする男によって。

でも「王の駒」に阻まれることなど、実は大した問題ではない。
一番大事なのは、王さえも駒としようとしたアラミスが、王と天上の某の間に立とうという男が、「1人の人間の人生を狂わせたのは自分だ」と、最後に大いに、とてつもなく後悔することだ。
甘っちょろいかもしれん。
でもこれはある意味、原作の、ポルトスを巻き込み、結果死なせてしまった、アラミスのどうしようもない悲痛な後悔とオーバーラップする場面だ。

「王」として祭り上げようとしたフィリップは、結局アラミスにとってはいつの間にか「人間」だった。
運命に、それこそ天上の某に翻弄された、哀れな、愛すべき囚人だった。
「フィリップは私が守る!」なんて、こっ恥ずかしいくらいの熱血はどうよと思えども、でも、ここで重要なのは、「情」を持つ者は、人間は、某と王の間には立てない、ということだ。
「守られていた」フィリップが王になれないように、「情」を、人の心を捨てきれないアラミスもまた、チェス盤の上で生きるしかないのだ。

でも計画の頓挫、野望の頓挫、そして破滅よりも、最後にフィリップのために揺れ動く情、原作で言うならポルトスのために流した涙こそが、この胡散臭い似非坊主・アラミスの、最もアラミスたるところであるし、この姿がまた愛すべき人間の「普遍」のひとつだ。
そしてもっと重要なのは、原作のアラミスは、モリエールから衣をもらったアラミスだけは、この「ダル物」のなかで、最後までしぶとく、それこそ「傷ついてもなお、立ち上がって」生きるのである。
それ故の、衣なのか…。
…アラミス贔屓の欲目かもしれないが。

最後に高見から盤上を見下ろすペルスランとモリエール。
チェス盤の人々は、衣を脱ぎ、「今」に戻る。
でも舞台で熱く演じられた「普遍」は残る。

ペルスランはバッキンガム公爵か、なんて意味不明な蛇足はもうどうでもいい。
まるで彼らは次の世界へ、ワイシャツの人々にまた別の衣を着せに旅立たんとしているようだ。

そしてその「次の世界」でも、モリエールは舞うのだろう、自在に、自由に。
そして大人になった、おっさん三銃士の年齢になった人間に2枚目の衣を与えながら、無表情に問うのだ。
「お前にとって、変わらずに残っているものは何か」と。
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by kababon_s | 2012-03-13 22:31 | Theatre/Musical

Axle 三銃士「仮面の男」:「ダルタニャン物語」昇華の一つの形

3月10日、劇団Axle(アクサル)の三銃士「仮面の男」マチソワを見てきた。

「三銃士」「ダルタニャン物語」のファンとして出かけていったもので、鑑賞も「銃士ファン」としての視点。
また正直Axleは、名前は知ってたが、実際に舞台を見るのは初めて。
いや、正直Axleという劇団自体、若い男性ばかりのユニットということで、「ヅカの男版?」とか、「仮面の男」にしても最近多い銃士タイトルのデカプリオ映画を引っかけて乗っかったものか…と思ってたが、なかなかどうして、とんでもない!
「三銃士」「仮面の男」「鉄仮面」どころか、その原作である全11巻に及ぶ大作「ダルタニャン物語」自体を深く掘り下げ、煮詰めて凝縮させ、2時間を一気に駆け抜けたような素晴らしい、とてつもなく中身の濃い舞台ではないか。
本当に、途中何度もうるうると、ぐっとこみ上げるものがあった。
ここまで「ダルタニャン物語」の長いエッセンスを凝縮して煮詰めた作品はなかったんじゃないだろうか。
少なくとも私は初めて見た。

天晴れだ。
本当に、天晴れだ。

銃士ファンとして、あの大作をここまで噛み砕いて2時間の舞台に収めた脚本さんはじめ、スタッフ、役者さん等々全ての関係者にお礼を言いたい気分だ。

もちろん原作をいろいろ脚色している部分は、当然ある。
フィリップに対する三銃士の立ち回りや、過去の三銃士全員のロンドン行も然り。
登場人物の台詞や立ち回りなど、解釈の微妙な違いはもちろんあるし、登場人物だって端折られている。
余分なものだってないわけじゃない。

でも、今作はそういう「キャラ物」とは一線を画している。
何よりアトス、ポルトス、アラミス「三銃士」の、一つの時代を駆け抜けた、彼らの生き様を、生々しい、等身大の人間として描き出してくれているのだ。

何より特筆すべきは、「ダル物」第一部の「三銃士」と第三部「鉄仮面」の部分を抽出した、二重写しの時間軸である。
すごい演出だ。

つまり、主要な役者に2役をあてがい、現在の「元三銃士」と銃士隊長のダルタニャン、さらに若き日の三銃士+ダルタニャンをそれぞれ配役することで、血気盛んな銃士たちの若い頃の時代、そして現在、これからの未来へのメッセージが綴られていくという構成になっているのだ。

話のベースはあくまで「仮面の男」。
ステージはチェス盤。
盤の上の国家であり、登場人物は国家のあるいは、神の駒だ。
「三銃士」とはいえ、衣装はワイシャツに黒パンツで、銃士隊は青ネクタイ、枢機卿側は赤ネクタイ。
役者はシンボライズされた上着を着ることで、その男はアトスに、アラミスに、ポルトスになる。
あるいはミレディに、ジュサックに、リシュリュー猊下にもなる。

銃士隊として「国を守る」ことに半生を捧げた、元銃士となった三人は、またそれぞれの信念や生きがいに従って、「国」「国家」と関わる。
「国家」として君臨するルイ14世だが、その「国家」たる王に仕えられなければ信念に従うしかない。

王の駒になるか、「王権」という天が授けた駒になるか。

王に幻滅し、天の駒であることを選ぶアトス。
天の駒ではなく、駒を動かす側になろうとするアラミス。
あくまでも王の駒として、職務を遂行しようとするダルタニャン。
駒などどうでもいい、無邪気に友といることに喜びを見出すポルトス。

アラミス、アトス、ポルトスはそれぞれの信念に従いルイ14世とすり替えるべく、囚われのフィリップ救出に動き、ダルタニャンはルイ14世に従う。
三銃士VSダルタニャンだ。

かつての友人が袂を分つのか、はたまた「やはりそうなのか」はともかく、このそれぞれの信念がぶつかり合う時間軸の上で、昔の、若かりし4人の出会いや「首飾り事件」の顛末といった過去の時代が随所で交錯し、現在と空間を共有する。

ルイ14世により、理不尽な死へと追いやられたアトスの息子、ラウルとの思い出が入り乱れるなかでの、父と息子の一瞬の出会い。
若い頃の銃士たちと、現在の銃士たちの、過去の自身との語らい。
ダルタニャンは過去の時間軸ではロシュフォールとなって三銃士と自身の前に立ちはだかり、現在では今は三銃士の前に立ちはだかるのは、なんという配役の妙か。
敵対していたはずの男と同じ立場にいるとは、なんというめぐり合わせか。

駒であることを拒み、冷酷さを持って己の信念に従おうとしながら、一人の人間の人生を破綻させ、それを悔いる、アンビバレンツで不安定な心を持つアラミス。
こうした理不尽や思うままにならない心や世の中、対立、新年の違いといった、ありとあらゆるものすべてが、一つの空間に存在するさまは、まるで曼荼羅の世界のようだ。

この混沌の曼荼羅絵図のなかで、アトス、ポルトス、アラミスの、三銃士たちが駆け、それぞれが閃光弾のように、弾け、輝く。

クライマックスで、一度は解放され外に出たフィリップはいう。
「国」とは、「傷ついても、そこに立ち、必死に生きる人たちだ」と。
ゆえに、彼は悟る。
「傷ついていない、監獄で“守られていた”自分は、王になれない」と。

ルイもまた傷ついていた。
誰も信じられずに、孤高の王として、「国家」たらんとしたのか。

フィリップは、そして言う。
「“国”を守ってください」という叫びは、悲痛だ。
「傷ついて、必死に立ち生きる人こそが“国”なのだ」という言葉は、このボロボロの日本の、もう否が応でも「過去には、2011年3月11日より前の日本には戻れない」現実を思い起こさせ、一層悲痛に、胸を締め付ける。

盤上で生きる銃士たち、そして客席も巻き込む曼荼羅絵図のなかで、モリエールが静かに舞い、踊る。
劇作家のモリエールは、だが舞台では語らない。
ただ、静かに舞う。
人々の間を、時空間のなかを漂いながら、彼らの生きざまを、どんな時代も変わらない、普遍の思いを次代に伝える使者のように…。

ペルスランだって、地下に潜伏する仕立屋とかいいながら、実際ははるか高みからこのチェス盤を見下ろす、あたかも「神」の化身のようだ。

「ダル物」で描かれてきた膨大な人間模様。
三銃士とダルタニャンの生き様。
お気楽冒険活劇もいいのだが、本来の「ダルタニャン物語」の持つ深い味わいは、この人間模様と、それぞれの生き様にこそ、ある。
未だに読み継がれ、今このときに舞台や映画、様々なメディアで何度もよみがえるのは、その作品に潜む「普遍の力」ゆえなのだと思う。

果たしてフィリップはどうなったのか。
逃げおおせて生き延びたのか、また囚われたのか…。
この話では、フィリップの行く末は描かれずに終わる。
だが、それはそれでいい。
「ダル物」の「永遠の謎」と言われる最後の台詞のように、それぞれが解釈すればいい。

とにかく、脚本家はじめスタッフの皆さんに拍手を。
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by kababon_s | 2012-03-10 23:19 | Theatre/Musical

「エオンナガタ」:ありとあらゆるものに境目はなく

シルヴィ・ギエム、ロベール・ルパージュ、ラッセル・マリファントの「エオンナガタ」を観てきました。
衣装は、故アレキサンダー・マックイーン。
ギエムさん、「ボレロ」日本ツアーお疲れ様でした。

まずは、これから出かけて観る方は、事前にネットなどで「エオンの騎士」「シュヴァリエ・デオン」などを検索して、この人物の生涯を頭に入れておくといいと思います。
または早めに行ってパンフレットをじっくり読むなど。

というのも字幕が使われるので、そこに気を取られるとどうしても舞台を十分に観られませんので。
話は「シュヴァリエ・デオン」の生涯ですから、それを抑えておけば筋は分かります。
また字幕はほとんどパンフレットに掲載されているので、それを読めば取りこぼしても後で補完できますから。

また、作品的には一口で言えば、ギエムのいうところの「ダンス・スペクタクル」。
ルパージュが絡んでいるので、演劇系のダンスだろうとは思っていましたが、確かに「ダンスもある演劇」というか。
ギエムの、純粋に「バレエ作品」を期待している方は、間違いなく大ハズレです。

でも「パフォーマー」としての、ギエムのもう一つの側面を観ると言うところでは、とても面白いし、興味深いものでした。

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by kababon_s | 2011-11-17 23:26 | Theatre/Musical

サイトウキネン2011(1):「中国の不思議な役人」「青髭公の城」「兵士の物語」

松本に来ています。
サイトウキネン。
超大奮発。

でも昨年今年のバレエ&オペラプログラムが「中国の不思議な役人」「青髭公の城」、さらに「兵士の物語」なる実験劇をやると聞いてから、もう来たくて見たくてならなかったですね。
てか、サイトウキネンって、こういう前衛的なもの、実験的なものをやるフェスティバルだったのか?というのが驚き。
失礼ながら、松本という地方都市で、こういう異色系のものがペイできるのか…?という疑問もありましたが、チケットは瞬殺だったし、行ってみたら満席だったし。
小澤さんは残念ながら体調思わしくなく降板でしたが、今回見た公演はどれも面白くて、行って良かったなぁと思います。

で、「中国の不思議な役人」「青髭公の城」「兵士の物語」。

「中国の不思議な役人」「青髭公の城」はバルトークのマイム劇とオペラ。
今回は「中国…」は新潟のコンテンポラリーバレエ団Noism、「青髭…」はオペラ歌手&Noismコラボの、バレエ&オペラという感じの、いずれもモダンな演出によるものです。

「兵士の物語」は音楽劇というか、劇と音楽のコラボ?
曲はストラヴィンスキー、ストーリーはフランス人のラミューズ。
今回日本版はサイトウキネン・オリジナルで、主演は石丸幹二さん、語りが福井貴一さんという元四季コンビ。
悪魔役は演出も手がけた串田和美さん、プリンセスが麻生花帆さん。

それぞれの感想はまた別途。
今回は2日間の総括をまずしてみようかと思います。

というのも、この3作品、共通点が多いようでないようで、でもやはり多いのかなと思うわけです。

いずれも作られたのは第一次大戦後。
ロシアはともかく、フランスはドイツ国境が焦土と化し、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、経済は大悪化という、混沌の時期だったわけです。

市民文化が花開き新しい芸術文化やガラス&鉄骨建築の新しい芸術文化は20世紀の声と共に、民族主義や、国の体制弱体化にともない退廃へと向かい、とうとう第一次世界大戦を迎えてしまったわけです。

そうした経過を経て生まれた作品は、やはり明るいわけでもない。
諦念のような愛、知り過ぎた不幸、「一つの幸せで満足せよ」という無欲。
希望や未来を遮るのは、「役人」の影たる力であり、血や涙であったり、常に心を脅かす「悪魔」――つまり、抗うことのできない、というか常に「人間」が戦い続ける「闇」だったりするわけです。

でもそうしたなかで、ささやかな「希望」はやはりあるような気がします。
それはそれぞれの作品についてのレビューに送りますが。

ともかく今回思ったのは、そんな作品群をこの震災を経て混沌とした無言の不安を抱える、このタイミングで上演する巡り合わせ、というか芸術家の嗅覚がまたすごいと思わせられたこと。
そして、こうしたテーマに果敢に立ち向かい、見る者を引き付けるものに仕上げたところに感服しますし、敢えてこうしたことをやろうとしたサイトウキネン&小澤さんに、やはり敬意を表したくなります。

てかNoismだって、噂には聞いていて、一度見てみたいと思い、このほど実現したわけですが、たけど、これほど踊れて表現力のある集団だとは思いませんでした。
日本のコンテンポラリーも侮れない。
先日のオールニッポンバレエガラでも思いましたが、これだけ踊れて表現できる日本人が、実に多いと思い知らされ、頼もしく思う昨今です。

こうした「一歩先」を見据えた、また挑戦的なプログラムを上演する芸術フェスティバルがあるというのはすごいし、そこに「サイトウキネン」の価値の一つがあるのかなとも思います。

ただ、気になるのはタクシーの運ちゃんが言ってた「小澤さんが病気して以来、規模が縮小されている」「芸術劇場建設時に市民は大反対し、建設した市長は落選した」ということ。

確かにすごいホールで、これが東京文化会館だったらどんなにいだろう、と思います。
ホントにすごいよ、このホールは。
でも一方でロックコンサート等々の多目的シアターには使えないだろうな。
かなり使用ジャンルを選ぶホールです。
果たして建設費は松本&長野県だけで回収できるのだろうか?とは、余計なお世話ですが、私も感じました。

またどうも外で思うほど、サイトウキネンって市民的には根付いていないのでしょうかね??
もっと町中「サイトウキネン」かと思ってたのですが、全然普通。
実際街を歩いていても「観光客がお金落としてくれるから、あってもいいよ」的な雰囲気は否めませんでした。
これで松本に芸大や音大があれば、もうすこし盛り上がりも違っていたでしょうに。

非常に面白かっただけに、なんとなく先行き大丈夫なのかな…??という疑問も頭をよぎった松本滞在でした。
こうした挑戦的なプログラムを、最高のスタッフ&クオリティで見られるなら、また来年も来たい…と思いますがどうなのかな??
こういうフェスティバル、あってもいいと思うのですが。
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by kababon_s | 2011-08-26 23:49 | Theatre/Musical

劇団昴「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」:舞台ゆえの余韻

標題。
長いですね(苦笑)
ニキータ・ミハルコフの映画「機械じかけのピアノのための未完成の戯曲」の舞台化です。
この映画ははるか昔に見て、結構地味に心に残っている映画。
特に山あり谷あり…というものでもなく、ただ慈愛的な映像美で、あの春のロシアの草原や沼などの風景の中で、夢破れ淡々と生きている小学校教師・プラトーノフとその周辺貴族を描きつつ、ロシア…というか当時はペレストロイカを間近に控えたソ連の病もにじませたものでした。

そんな映画の舞台化。
観終わって一番最初の感想は「意外と台詞とか覚えているもんだ」でした(^_^;)
まあ何回も見たからな、私も、あの映画は。
脚本にやっぱりミハルコフが関わっているせいか、台詞のほとんどが映画のもの。
なんか全ての台詞に覚えがあって懐かしい一方で、舞台なら台詞も含め舞台のやり方があるんじゃないだろうか?などとちょっと物足りなさを感じたのも事実です。
某人形劇のコミカライズもそうなんだけど、元の脚本をそのままなぞるだけってのはどうなんだろうな??
ペーチャが撫でつけた髪をくしゃくしゃとやるという、時折映画とおんなじ振りまで出てきてちょっと…どうよとは思いましたが(^_^;)

でもあの広大なロシアの草原や貴族の別荘地や庭とかを一つの空間に凝縮させたのはすごいことで、やはりこれが舞台の醍醐味か。
暗転した時に屋敷の外に出るんじゃないかと思ったら、最後まであの室内空間。
恐れ入りました。
でも病める貴族たちの素っ頓狂でお馬鹿な、かつシニカルなパーティーがあの「舞台」という狭い空間の中で繰り広げられるからこそ、登場人物それぞれの人となりや個性、深さがより明確に伝わって来たような気もします。

特にアンナの存在感。
映画では上空の遠目から見ている語り部的立ち位置で、今一つ印象が薄かったきらいもありますが、さすがベテラン女優といいますか。
どっしりとした存在感があり、物語をこちらは大地の上で、根底から支えていた感がありました。

ソフィアはキレイだし、サーシャは健気だ。
というか、そばにいる人とささやかな幸せを築き、そこに喜びを感じる一番純朴で素直でまっとうな登場人物です、サーシャ。
私は映画ではこのサーシャが一番好きだったのですが、彼女の場合、純朴さゆえの愛だから、ラストのあの台詞は握りこぶし天に付きたてる、セクトの演説のようには言ってほしくなかったなぁ…と、そこがちょっと残念かも。

ストーリー的には過去、自分はなんにでもなれる、と野心に燃えていた学生プラトーノフが恋に破れ大学も中退し、一介の小学校教師として妻・サーシャと淡々とした日々を送っている。
ある日招かれたアンナのパーティーで昔の初恋の相手・ソフィアと7年ぶりに再会。
彼女も結婚しすっかり変わっており、美しい過去も傷つき、うだつの上がらない夢破れた自分をまざまざと思い知り絶望する。
妻との幸せな結婚生活も「幸せだ」と思いこみたかったのに過ぎないのだと、自暴自棄になっているところにソフィアがもう一度やり直そうと言いだし、それをソフィアのダンナであるボンボンが目撃してしまい…という展開。

結局「全ては元通り」というのが顛末ですが。

映画ではアンナが空から「いやぁ、全ては元通りね♪」といったニュアンスで俯瞰します。
というか、そんな感じだったような。

今回の舞台はその大地からストーリーを支えるアンナがやはり同じように言います。
「全ては元通りね…」と。
でもその重みは何??
しかもその台詞を木霊のように何度も何度も繰り返すのです。
そして繰り返されるたびに何か重たいものに感じられてくる。
ともすれば呪いの言葉のように…??
いや、まるで立ち向かう静かな炎のように…??

元通りだけど、全く元通りじゃない。
本当に元通りなんて、あるんだろうか?
元通りだけど、変えられる。
元通りだけど、元通り。
元通りなんだよ、コンチクソー。
元通りでいいの?
あなたにとって「元通り」って何…??と問いかけられているような気もしました。

観客それぞれが持つ印象や感想、人生は人の数だけある。
見る者全てがそれぞれの思いを抱けるように、結末を強引に押し付けることなく、見る人の数だけの未来を想い、語りかけていたのでしょうか、アンナは。
あの映画の映像に溢れていた、これも慈愛だったのかもしれません。
こういうゆとりのある作り、好きです。

いずれにせよ映画の余韻とはちがった余韻。
これはやっぱり、舞台ならではだったのかも。
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by kababon_s | 2010-10-10 02:24 | Theatre/Musical

宝塚雪組「カラマーゾフの兄弟」:ドストエフスキーも驚愕!?

いや、私も驚きましたわ!
まさか宝塚であのロシアの文豪の、しかもめちゃくちゃややこしい「カラマーゾフの兄弟」をやるなんて…!!
草葉の陰でドストエフスキー御大も、さぞや驚愕されていることでしょう。
芝居やバレエはあったけど、まさか女ばっかの劇団のミュージカルなんて、誰が想像しただろう(^_^;)

でも「三銃士」同様「カラマーゾフ」と聞くと黙っていられない私は見るのである。
元々ヅカに抵抗はないし、好きだし、舞台(^_^;)
てかリアル公演を見損ねたので、この舞台のためにわざわざCATVのヅカチャンネルに加入しましたさ(どーん)!
文句あっか<(`^´)>
1カ月のみの契約とはいえ、今月はヅカ三昧だそ!

それはともかく。
あの小説「カラマーゾフの兄弟」はやたら長ったらしい上にややこしいところに、計算されつくした仕掛けが山ほど潜んでいる。
本来純粋な三男・アリョーシャを主人公として、帝政ロシア末期から社会主義ソヴィエトの到来を予言するようなストーリーになるはずだったのですが、作者が亡くなり未完となってしまった超大作です。
さぞや無念であったでしょう、ドストエフスキー先生も…。

未完ゆえ、三男アリョーシャの存在感は一見薄く、激情の長男ドミトリー、あるいは無神論者の次男・イワンが主人公ぽく見えてしまう、なかなか物語の真意が伝わりにくい小説でもあります。
もちろん二度、三度、四度…と、何度も読むほどに主人公は確かにアリョーシャであり、また彼が愛おしく思え、そして「カラマーゾフ万歳!」と叫びたくなるのですが、それはあくまでこの物語の沈殿部分。

上澄み部分は激情の長男・ドミトリーとエロ実父・フョードルの、一人の娼婦と金を巡っての確執。
父親殺しの冤罪をかぶせられたドミトリーの話を軸に、三兄弟のアイデンティティを描きだすというストーリーなんですな。

そんなわけでこのヅカ版カラマーゾフもドミトリーを主人公に据えたいわば「上澄み版」。
ドミトリーと娼婦グルーシェンカの愛を中心に据えた愛憎劇です。
だがこの「カラマーゾフの上澄み」たるメロドラマは今ならワイドショーが飛びつき毎日何かしら放送するような内容でもあるので、そういう意味では確かにヅカならいけるだろうさ、とちょっと納得しました(^_^;)

まあどうなるかと思ってましたが、完全ドミトリー主人公視点で、彼の母親や淋しい子供時代なんかにもスポットを当てて、結構頑張ってましたよ。
まあ痒いっていえばそんな部分もない訳じゃない…ってかあるけど、でもこれはこれ。
詰め込み過ぎ??というところは感じましたが、努力には敬意を表します。
失恋とアル中ゆえに登場するイワンの幻影は、私は背景を知っているからすんなり理解できたけど、初めて「カラマーゾフ」そのものに触れる人にはどうだったんだろうとは思いますが。

でもあのややこしいストーリーの舞台展開は見事ですよ。
よい流れです。
頑張ったなぁ、ホント。
できればイワン錯乱&法廷乱入のシーンでアリョーシャにも乱入していただき「違う! あなたじゃない!」と叫んでいただきたかったですが(^_^;)
「あなたじゃないんだ! 兄さんっ!(悲痛)」
萌え~~vv
アリョーシャ、かわいいよアリョーシャ(ヱ?)
また農民たちを登場させ、あの時代の社会を語ったんだったらドミトリーの冤罪についても「農民達が意地を通したのさ」と言ってほしかったかも…。
でも多くは望むまい。

またスメルジャコフを「哀れな美男」にしただけでああも見方が変わるものか。
この点は虹色バラ色夢舞台のヅカゆえしょうがないのでしょうが。
むーん。

ちなみに主演は水夏希。
ヅカ的にカコエエです。
フョードル役の未来優希がすげえエロオヤジ演技!
グルーシェンカの悪女っぷりといい、カテリーナの高慢ちきっぷりといい、「そういやこの話はどいつもこいつもしゃーねー奴ばっかだった」と思い出させるイヤラシサがありました。

まあ、そんなわけで。
ヅカだから。
でも久々にあの三兄弟のことを思い出せて楽しかったです。
ええ、カラマーゾフはキャラ萌えでこそ楽しいのよ(*^^)v

ラストのレビューはロシア民謡メドレー(^_^;)
ええ、ヅカですもの。
やっぱりコレがなくちゃね~(*´∀`*)
というわけで、これはこれでめちゃくちゃ楽しめました。
再演あったら今度は生で見たいものだ。
舞台はやっぱり生で、その場の息吹を感じてこそ楽しいよ。

その一方で。
かっこいいロシア人あるいはちゃんと男性が演じてくれるカラマーゾフも見たくなった…。
エイフマンのバレエ「カラマーゾフ」はちゃんとアリョーシャ視点のすごい作品だったんですが、また来てくれないかなぁエイフマン…・゚・(つД`)・゚・
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by kababon_s | 2010-02-14 23:48 | Theatre/Musical

「エリザベート」コンサート版:ウィーンのデカダン

コンサート版「エリザベート」。
ウィーン発のあのミュージカル「エリザベート」のコンサートバージョンです。
てかオペレッタ風?
ステージの真ん中にどーんとオケが入って、その周りのシンプルセットで役者が歌い、演じるというもの。
簡易版とでも申しますか。

なんで新宿コマではセットが作れなかったのかよ、となんか恨み言の1つも言いたくなりますが。
まあ、それはそれ、これはこれ?
それなりに楽しめたものではありました、やはり。

というか、シンプルさゆえに、見る側の想像力が掻き立てられるという、想像/創造の醍醐味がありましたね。
歌とかストーリーはオリジナルに添っているわけですから。

またシンプルさゆえに、歌唱力とかオケが魅力がないとヘタるわけですが、さすが音楽の都・ウィーンといいますか。
もうその点は言わずもがなというか申し分なし。
ウィーンというか、オーストリアのドイツ語は、ドイツのものと比べると角がない、まろやかなドイツ語で私はとても好きなんですが、そういう魅力、ミュージカルにもあうんですねぇ。

舞台もライトやレーザー衣装がモダンなウィーン+お話の背景となる世紀末の時代と重なって、デカダン(*^ー゚)b グゥ
これきっと本当にフルセットの舞台で見たら、もっと退廃チックなムードなのかな~とか想像したりするわけです。

ストーリー的には、単なる「シシィヽ(´ー`)ノマンセー」ではなく、かなり客観的に彼女を捉えていたところは好印象です。
でもコレをみてシシィは好きになれないけど、私的には。
正直第一幕は主人公である彼女に思い入れができなくて、結構しんどかったです。
でも2幕になって世情や世紀末時代背景、帝国の陰りなんかが描かれるにつれて、大分面白くなりました。
息子に同情してしまったし、フランツ・ヨーゼフも哀れだ。
イヤミな姑もなんかあの死の直前の歌でがくーっと同情票アップ!?
それだけキャラクターを掘り下げてあるのでしょう。

誰が悪でも善でもない。
歴史の波と時代の流れを淡々と捉えながら、そこで翻弄される2艘のボートでした。

「為政者が無能だと文化は熟する」というようなことを、確か堀田善衛氏が小説のなかで書いておられましたが。
まさに世紀末ウィーンはそれプラス、多民族ゆえの文化が融合して華開いた、ウィーンならではの世紀末だったような気がします。

でもって、そのテイストが今のウィーンには脈々と息づいているんだなぁと、改めて感じさせられました。
だからウィーンのモダン・カルチャーって魅力的なのかも。

余談ですが、会場にウィーン観光局のパンフあり。
阪急のシシィをたずねる旅のパンフもありましたし、結構ハケてましたね。
どのくらい成約するのかは分かりませんが、潜在需要の掘り起こしにはいいかと思います。
確実にゥイーンに興味のある、または持った人ですから。
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by kababon_s | 2007-05-09 23:45 | Theatre/Musical